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講演会:レジュメ

 

 

2009年3月21日
文明化のなかのイスラームと諸宗教間の対話
筑波大学特任教授 塩尻和子

 

1、 文明化とはなにか

現代の文明化とはグローバリゼーションと言い換えることができる。しかし、現代では、すでにグローバリゼーションが予想以上に進展した時代であり、ポスト・グローバリゼーションの時代を見据えて宗教を考察しなければならない。そのためには、まずイスラームにおいて現代のグローバリゼーションがどういうものであったのか、ということを検討しておきたい。

セム的三宗教の間では、当初からイスラームが最も顕著に多元主義的であるという見解がある。七世紀初頭のアラビア半島でみられた頑迷な部族主義や血縁主義を廃し、全ての人間を対象とする普遍的な宗教として起こったイスラームのなかでは、「グローバリゼーション」という語の本来的な概念が、つまり「地球上のすべての人間は神の被造物であり、神のもとでまったく平等である」という概念がみられるからである。この概念こそが急速なイスラームの伝播と拡大につながったと考えられる。

しかし、今日のグローバリゼーションはアメリカ中心主義という新しい衣をまとっており、その枠組みは西洋中心的な「自己認識」にすぎない。つまり今日のグローバリゼーションは、特定の政治的・経済的な意図を伴った囲い込みであり、世界の力関係によって形成されている一種の虚構でしかない。そこから排除された「他者」には対等な関わりがもてないシステムとなっていて、決して字義通りの普遍的なものではなくなっている。

イスラームだけではなく世界宗教といわれる宗教が本来もっていたグローバルな側面と、現代のグローバリゼーションとの間に大きな断絶があることが、今日の宗教をとりまくさまざまな悲劇の要因となっていることは否めない。

イスラーム世界で展開されるさまざまなかたちのイスラーム運動は、戦闘的急進的な運動も含めて、一般に今日的なグローバリゼーションの外側に位置づけられる。ハンチントンなどの主張に代表されるように、「野蛮な」文明と断じられ、イスラームは根本的に多元主義や民主主義、人権などといった近代的な価値観とは相容れないと批判される。しかしイスラームには、西洋的な民主主義や人権思想とは基盤が異なるものの、それに近い社会観や人間観が存在する。いま、イスラームの内側においても、これらの基本的観点を踏まえながら、緊急の課題として「国際化、文明化、グローバリゼーション、対話の可能性」が研究されている。現代の「文明化」「グローバリゼーション」が、異なった伝統的文化や宗教、習慣などの違いを認めあいながら形成される「世界はひとつ」という枠組みであるなら、宗教間対話が成立する可能性があるかもしれない。

2、イスラームと「共存」・・・ユダヤ教・キリスト教との共通点(内側)と相違点(表面)

ここでいう「信仰者」とは、「神の唯一性」を信じるだけでなく、預言者ムハンマドが預言者の封印であり、彼に齎された啓示が神の言葉「クルアーン」であることを信じる者を指し、「神の唯一性」を信じるとしても、ムハンマドが最後の預言者であることと、クルアーンが神の言葉であることを受け入れない者は「不信仰者」となる。ユダヤ教徒、キリスト教徒は、たとえ「啓典の民」であっても、ゾロアスター教徒、マニ教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒などと等しく「不信仰者」である。

今日的な「共存」が、さまざまな宗教の信者が、同じ地域社会で平等な権利と義務のもとで、ともに暮らすということを意味しているのであれば、それは、どの宗教においても決して平等ではない「信仰者」と「不信仰者」が共存することにつながる。この問題をどのように解決することができるのか、今、最も問われることかもしれない。

3、歴史に学ぶ・・・世界初の諸宗教共存体制

イスラームでは、「人間」は超越的な神の前では絶対的に平等であり、すべて生まれながらにしてムスリムである、という原則を掲げていても、実際に信仰を持つ者と持たない者との区別は明瞭にされる。言い換えると、イスラームの教えでは、信仰者と不信仰者は、そもそも神の前では平等ではありえない。したがって、ここでいう「人間」とは、ムスリムだけを指しているということができる。

初期から近世までの長い期間、イスラーム世界で実施されていた啓典の民に対する「保護民政策」が比較的有効に機能したのは、イスラームの優位性を認め、イスラームによる支配を受け入れることによって実現した共存体制であり、決して「平等な権利と義務」による社会体制ではなかった。このような社会体制下の保護民が「二級市民」としての苦渋の選択を強いられていたという見解に対しては判断が分かれるが、一握りの権力者に支配された社会では、現実にはイスラーム教徒であっても保護民とほとんど変らない抑圧された被支配者の暮らしを余儀なくされていたことは、あきらかである。

したがって、「イスラームにおいてのみ他宗教の信者との共存が問題となる」という設問は、最初からイスラームに対する偏見や誤解を伴っているというべきである。どの宗教においても、他宗教の信者との共存を成り立たせるためには、自分の宗教が自分にとって正当であるのと同様に、他者の宗教が他者にとって正当なものであることを認め、それに敬意を持つことであるが、さらに重要なことは、自分の主張を他者に押しつけ、自分の判断の次元で他者を判断しないことである。しかし、このような条件は、言葉はやさしいが、現実に遂行することはきわめて難しい。

4、差異を乗り越えるために・・・現代の学者たちの努力
 
前述のように、人間を「信仰者」と「不信仰者」とに二分して差別的に扱う、という宗教体制はイスラームだけものではない。強固な選民思想が中心軸となっているユダヤ教はいうまでもなく、キリスト教でも「神の国」に入ることができるのはイエスを「救い主キリスト」として信じる信仰者のみである。さらにキリスト教は西暦三九二年にテオドシウス帝の勅令によってローマ帝国の唯一の国家的宗教として認定されてからは、政治的体制としても異教徒を差別し排除する政策が採られてきた。キリスト教と政治や社会体制との結びつきの一六〇〇年を超える長い歴史的経緯は、現代においてもヨーロッパの移民問題に根深い影響を与えている。

スイスを中心に欧州で活躍するターレク・ラマダーンは「神とともに在ることは、人類とともに在ることである」として、これを「タウヒード」(神の唯一性)の本来の意味であると説明している。このタウヒードは、四つの次元を持って展開しているが、まず、家族との関係から始まり、つぎに五行の宗教的儀礼を実行することによって集合的側面を持つことになり、信仰者はすべて信仰共同体に所属する。第三にこの信仰共同体は「信仰告白」シャハーダによって結ばれる「信仰、感情、同胞、運命の共同体」ウンマとなる。すべてのムスリムは個人として信仰に入るが、同時にひとつのウンマの成員としての義務を負うことになる。さらに第四の次元にいたると、ウンマは、ムスリム以外の全人類に対しても、あらゆる状況下において正義と人間の尊厳の側に立つことによって、みずからの信仰について証言する義務を負うことになるのである。ラマダーンはムスリムが全人類に対して正義を行なうという原則が、タウヒードの実践であり、ムスリム共同体全体の任務を真に理解することに基づいていると言う。

このような「共存」を、ラマダーンは伝統的な「イスラームの家」dār al-Islāmと「戦争の家」dār al-ḥarbという区別から、「告白の家」dār al-shahādahへと転換をはかるための鍵概念であるとしている。彼は、さらにヨーロッパに住むムスリムにとって、もっとも重要な課題はシティズンシップであるとして、ムスリムの側からは、移住し共存して住む運命にある土地・国家・都市への忠誠を守ることを、ヨーロッパ社会の側からは、ムスリムにシティズン(市民)としての平等な権利と義務を与えることを要求する。

5、文明化のなかの新しい対話を・・・キュンク神父の提言
 
このような「共存」を、ラマダーンは伝統的な「イスラームの家」dār al-Islāmと「戦争の家」dār al-ḥarbという区別から、「告白の家」dār al-shahādahへと転換をはかるための鍵概念であるとしている。彼は、さらにヨーロッパに住むムスリムにとって、もっとも重要な課題はシティズンシップであるとして、ムスリムの側からは、移住し共存して住む運命にある土地・国家・都市への忠誠を守ることを、ヨーロッパ社会の側からは、ムスリムにシティズン(市民)としての平等な権利と義務を与えることを要求する。

中世のアッバース朝下で実現した多宗教・多文化・多民族の共存は、イスラームの支配権を認めるという条件下であったが、今日では、イスラーム教徒と他の宗教の信者たちとが上下関係なく平和的に共存することができる地平を作り出すことが求められる。そこでは、もはや、どの宗教が支配権を執るかということは問題にされず、どの宗教を信じていても、人間としての尊厳と権利と義務が尊重される世界であるべきである。

クルアーンに、神は絶対的な高みに存在するが、同時に「人間の頚動脈よりも人間に近く在る」(五〇章一六節)と記されている。このような「いと高く、いと近く」在る神のもとでは、「神と人間の共存」は創造的な意味をもって、人間に決断を迫る究極的な「共存」となる。このような「神と人間の共存」のもとでは、人間同士の差異はなんら問題にもならず、共存を阻む要素さえ存在することはなくなるのである。
 
そのためにはそれぞれの宗教の教義などあまり知らないほうがよいという「非ロゴス的対話」を強調する立場もある。しかし、私はカトリックの宗教学者ハンス・キュンク神父の以下の言葉を紹介したい。


「宗教間の平和なくしては民族間の平和はない。
 宗教間の対話なくしては宗教間の平和はない。
 宗教の基盤についての探求なくしては、宗教間の対話はない」

最後の行で言われているように、できるかぎり、相手を知ることに努めることが、必要ではないかと思われる。偏見と蔑視を排して、世界中で16億人に迫る信者数を要するイスラームを学び理解することは、自らの信仰や信条を再確認することでもある。
 

 

     
 
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