神社の現在の神主である宍野さんは、我々を鳥居の前であたたかくお迎えしました。神道の宗派のひとつである扶桑教の後継者でもある宍野さんに、同宗派の教えを基に、神道について教えていただきました。
学習は、鳥居から入って右側にある「手水舎」の説明から始まりました。神道の信徒は、ここで手と口を水で清めてから神社に入るそうです。その作法をも丁寧に見せてもらいましたが、参加者の皆が一人残らず気づいたように、同じような行が、イスラームにもあり、その間に幾つかの類似点がありました。まず、言葉レベルでの類似点ですが、「手水」にあたる概念としてはトルコ語で「abdest」という語がありますが、その意味もまさに「手水」です。さらに、「てみず」は、トルコ語で“清らか”を意味する「temiz」という単語の発音にほぼ似ているという点も私たちを驚かせました。
次に、儀式が行われる建物に移りました。建物の中の道具や官長は、「社に偶像が安置されないので、神道が偶像崇拝でもなく」、八百万の神という表現から理解されるように「神道においては数多くの神が祭られている」という一般的な認識と違って、「神道は多神教でもない」と指摘すると、参加者の皆さんが興味深くその話に耳を傾けました。「それは隣の会議室で話します」と言われて、その詳細は次の段階に回されましたが、ここでは、私たちのために特別に、儀式が行われました。儀式中、官長が敬意を表していた先に、鏡の存在が目に触れた参加者の一人が、その理由をたずねました。神を表すものであると答えられました。皆が同感したのは、神道の儀式における始終一貫とした動作の順序の重要性と執行の丁寧さであった。イスラームと神道の儀式の間に様々な違いがあるという事実にも関わらず、儀式における動作の順序の重要性と執行の丁寧さという観点からは、両伝統において共通している部分があると言えます。イスラームの五行の内、1日五回行われるサラート(トルコ語ではナマーズ「namaz」)と一生一回行われる巡礼というものがありますが、そのいずれも義務行為であり(サラートは、各自に義務ですが、巡礼は富裕者に限ります)、動作の順序に従って丁寧に行うことも義務です。順序を間違えると、礼拝が無効になるということもあります。
儀式に関する見学の後に、私たちのために用意された会議室に移動しました。ここでは、神道の神概念について学びました。
宍野さんは、先ほどの発言(神道は多神教ではない)をここでも繰り返し、その詳細を語りました。下記は、その内容ですが、文章は報告者によるものです。
神道の神概念について、八百万の神という見方があります。人々は、米一粒にも神が宿っていると信じています。しかし、実際には、人々が信じている個々の神々は、一人の神の異なる動作、もしくは自然の機能である。これを、人に準えてみると、次のようにさらに説明ができます。人間には、目、耳、手や足などの様々な器官があります。そのそれぞれの器官は、異なる機能を持っており、異なる動作をするのです。しかし、全ての機能と動作は人間に帰されるのです。例えば、太郎の耳、太郎の目などの言い方ができますが、「太郎の耳」を、太郎と異なる個別の存在として認めないのです。それと同じく、神は、唯一者ですが、神が持っている様々な機能が、自然においては、さまざまな規則として現れます。例えば、神は「創造主」であり「創造」という属性を持っています。それは、自然において「製生」として現れます。例えば、山には山の恵み、海には海の恵みが生まれます。それは、山にあるから山の神から、あるいは海にあるから海の神からの恵みであると信じることは間違っています。実は、全ては唯一神から発されます。
宍野さんの説明は、だいたい上記のようなものでした。参加者と神社の関係者らの間に、神道とイスラームの神概念、神道の美徳、日本文化などの様々な分野についてビビッドの議論が交わされました。
最後に、宍野さんの「世界平和のために、一緒に活動しましょう」という共同の活動の呼び掛けと「次回は、伊勢神宮に行きましょう」という招待を受けた参加者たちの満足げな表情には、非常に有益な訪問であったという印象がありました。帰る途中は、訪問前神道の神社と仏教のお寺の違いすら知らない者がいた参加者の話の中には、このような訪問をすればするほど、更なる共通点が見つかるのではないでしょうかという感想がありました。
